私は普段映画をホームシアターでよく観ていますが、邦画以外の映画は常に字幕で観ています。それは映画の中に入り込む際に、俳優の骨格と違和感のある声だったり、わざとらしいアフレコだったり、動いているキャラクターと声の動きがあっていなかったり、動いている口元と違う音が聞こえてくることで、映像と環境音との間に妙な違和感を生んで、その世界観の中への没入(ダイブ)するのを妨げられるのが嫌だからです。(現地言語での音声でも違和感のあるものはもちろんあります。)
「いっこく堂」さんの声が遅れてくる腹話術のような気持ち悪さといったらわかるでしょうか。あれは芸として見ている分には良いですが、ずっとあれで映画を見るのは我慢できないですよね。私にとっては、その気持ち悪さに近いんです。
ゲームと映画の融合
私がゲームを映画のような体験として意識し始めたのはFinalFantasyVIIからだったと思います。
当時のFinalFantasyVIIはまだポリゴンの荒いゲームでしたが、ゲーム中に流れる動画については、すでに映画のような雰囲気を醸し出し始めていました。ヒロインの死はとても悲しかったのを覚えていて、今でもサウンドトラックをよく聞きます。
その後FinalFantasyVIIIから本格的に映画としての要素を盛り込むようになり、その流れでFinalFantasyは映画にもなりました。私はこの頃にドラゴンクエストからFinalFantasyへと好みが移っていきました。
少しずつCGが進化していき、音声と口元の追随、キャラクターの動きと声の調子など、FinalFantasyXVではかなりその違和感がなくなってきているのを感じています。(下手な役者の演技よりいいくらいです。)
私はRPGゲームをホームシアターでプレイし始めたのはFinalFantasyXIIIが最初でした。
Playstation3でハイビジョンに対応したことがそのキッカケで、映画のようにゲームの世界にダイブ出来る気がしてプレイしてみました。
実際にプレイしてみて、ハイビジョン化と擬似的ではないマルチチャンネル対応はゲームの主人公として、もしくはその傍らにいる仲間として旅をしているような錯覚を生むようになり、ゲームが終わったときの達成感と喪失感は、それまでのゲームでは味わったことのない感覚でした。時間をかけてその世界の中へ浸っていくために、感動などの体験値は映画を観るよりも大きいものでした。
マルチチャンネル音声は「見る」から「居る」へ変える
人間の脳は目の前で鳴っている音には想像力をあまり使いません。目で見ているので目からの情報を素直に受け取ります。ゲームではよく自然の中を駆けるシーンが存在しますが、川のせせらぎや、海の波の音、鳥のさえずりや動物の鳴き声、木々が揺れる音、この音がステレオで前からしか流れない場合は、「見る」という感覚になりがちです。
しかしマルチチャンネル化した音声は、目に見えない場所から環境音や動物の鳴き声などの音声が流れていることで、無意識に脳がその存在を想像して、頭の中に空間を作り出します。このことによって。その映画やゲームの中の世界の中に「居る」という感覚を得ることができます。
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